浮雲

成瀬巳喜男浮雲」をビデオで見る。デコちゃんこと高峰秀子森雅之演じる受け身でどうしようもない男を追いかけて屋久島で死ぬ、というこの映画は、大学生の時に一回見たけど、その時は普通の恋愛ものみたいに見ていた気がする。しかし、もうすぐ死ぬ女に向かって「女なんてどこにでもいるからな」と森雅之が笑いながら言う台詞は単なる毒舌とはいえない程の重みがあるというか、これは林芙美子の原作にはあるのだろうか、と考える。林芙美子がそう書いているとしたらものすごく怖い女だし、成瀬巳喜男が新しく足しているのだとしたらそれはそれでまた興味深い。
昔大学のゼミでお世話になったフェミニストの先生は、ろくに勉強もせず、サークル、バイト、恋愛沙汰にうつつをぬかし、卒論のテーマなどろくにきめる事もできない無能な学生にそれぞれテーマを与えてやる、というかなり面倒見のいい先生で、今思えば良い先生だったが、わたしは小生意気な娘だったため、それを「おせっかい」ととり、フェミニズムで論文なんか書きたくないとゼミを飛び出し、先生を悲しませ、ろくでもない卒論を書いて今ではほんのすこしだけ後悔しているが、そんな先生がある学生に与えたテーマが「林芙美子の原作と成瀬巳喜男の映画を比較し、フェミニズム的に論じる」というテーマだった。しかし、わたしと同じく子生意気でミーハーな学生だった彼女はうまいことこのごりっぱなテーマを消化することができず、フェミニズムはどこへやら、といった論文が出来上がった記憶があるけど、今思うとたしかになんでもかんでもフェミニズムはいただけないけど(わたしが選んだ尾崎翠フェミニズムで斬るとものすごくつまらなくなる)このぞっとするような映画を見るにつけ、成瀬巳喜男フェミニズム、というか女性嫌悪という視点を入れて考えると結構おもしろいのではないかな、とほんの少しだけ考えた。そして、当時は林芙美子なんて読んでられるか、と思ってたけど今は読み返してみたい。

ついでに高峰秀子「わたしの渡世日記」上・下を古本屋で見つけて読む。高峰秀子というと、よく知らないわたしにはなんとなく優等生的な女優、というイメージがあったけど、良い意味で予想を裏切るワクワクするような本。一気に読み終わると同時に、「浮雲」の中のちょっと掠れたはすっぱな調子の彼女の声が思い出された。

わたしの渡世日記 上
高峰 秀子著
文芸春秋 (1998.3)
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