遠藤一郎の円盤でのパフォーマンスについて(下書き)

ライブ会場などで遭遇する、わたしたちよりちょっと上の世代(30代後半くらい)の先輩方がどんなに訳の分からない、アバンギャルドなことをやっていても実は音大卒だったり美大卒だったりするのに対して、わたしたちの世代の最大の特徴はといえばそういった基礎というものが「まるでない」ことであると思う。つまり、先輩方は基礎をきちんとやってマスターした結果、それを崩しまくって現在に至る訳なんだけど、わたしらの世代は最初から崩れているのだ。
わたしの周りには楽譜が読めない、他の人の曲は全く弾けない人がゴロゴロいる。そこらへんの小学生以下のレベルかもしれない。そして、学校で習うクラシック的な音楽の代わりに、わたしたちのほとんどは、ファミコンの音楽やテレビアニメのテーマソング、あるいはニュースで何度も流されていた麻原彰晃の作った宗教ソングに深く影響を受けているに違いないと思う。(音がバンド名)のよっちゃん(川染喜弘)のようにはっきりとライブでそれを示さなくとも。このことはいいとも悪いとも思わないけれども上の世代にとっては由々しき事態のようにも少し思う。彼らの影響を強く受けつつ、彼らに対する破壊的な風刺となっているのではないだろうか?
そういった「まるで基礎がない前衛芸術」の極北に位置するのが遠藤一郎である。彼はもう、ただ気合だけでライブの間をもたせて、感動させているのだ。そういった系統としてはもちろん、円盤で24時間ライブ行った川染喜弘、それから楽器を何も持たずにステージに上がり気合だけで観客によって胴上げされるパフォーマンスを成し遂げた国などを挙げることもできるのだけども、前の二つに関しては普通に音楽的に「良い」部分もあるのだが、遠藤一郎のパフォーマンスは友人ながらはっきり言えば常に結婚式の出し物レベルに留まっている(映像を除く)。にもかかわらず、先日高円寺の円盤で行われた彼のライブには大勢の人がつめかけ、涙を流して感動する者も数人いたのは一体どういうことなんだろう。
自分、あるいは仲間の結婚式で歌われる歌やバンド演奏はどんなに下手でも状況によっては感動できる。しかし、それが赤の他人であったら感動はしないだろう。そういう意味で、遠藤一郎の観客は全員遠藤一郎の仲間である。もちろん、はじめから会場にいる観客の全員が彼の仲間であるわけではない。遠藤は観客を仲間にするための戦略をもっているのだ。
彼はすぐには歌い始めない。たとえば、「俺たちはこれからだ」(ライブにおける彼の一人称は常に「俺たち」である)などのフレーズで仲間を応援する。あるいは、今自分はステージに上がったものの、やることが何も思い浮かばなくてピンチである、ということを正直に告白する。どちらのパターンの場合もものすごい気合がともなっている。遠藤の気迫に、観客は段々かれの味方になる。そこで、やっと歌い始める。遠藤の歌は節回しがメチャクチャで不快なレベルの音痴だけど一体化した会場にとってはそんなことは関係ない。こうなったらもう遠藤のペースなので何をやってもポジティブな感じさえ出していれば大丈夫だ。
しかし、一方で「仲間」のはずの観客までをも遠藤一郎はケムにまいているのではないかという疑念もわたしの頭に浮かんでくるのだ。我々の世代は上の世代に比べても下の世代に比べても弱くて感動しやすい。そして、観客は遠藤=感動というしるしをつけてライブ会場を後にする。だから、この次会場に来る時もきっと感動したくてたまらない状態でやってくる。そういった観客の陳腐な感動指向を無意識に笑ってるのではないかとも思う。川染喜弘や国が好きな人はぜひ遠藤一郎のライブにも足を運んで欲しい。
遠藤一郎のライブの帰り、わたしはずっとモヤモヤした気持ちを抱えてライブ会場を後にしたわけだけれども、(なんであの歌で人が感動するのか?)これは全く新しい仕組みの芸術であると思ったからこれを論文風に書いてみることにしました。考えをもっと深めてもう少し長くしてみます。