こほろぎ嬢

ちくま日本文学全集が、あのわたしの大嫌いな分厚いカバーをやめて、薄いカバーで再発になったのを今さら知る。あの全集によって尾崎翠と出会えたから、あれを出した人にはわたし、足を向けて寝られないなあ。
尾崎翠の小説の中で一番好きなのは「こほろぎ嬢」で、あれ以上の恋愛小説にはわたしはまだ出会えてないと思う。書物の中の人物に恋をし、熱にうかされたような気分で図書館に通い、パンをかじりながら、少しでもその人のことを知りたいと思うけど、心を充たしてくれるような書物には出会えず、小さな屋根裏部屋に住み、お母さんにお金の工面をお願いし、フワフワと地に足がつかないけれども感情は豊かで、頭痛薬に溺れ、かんしゃくを起こすこほろぎ嬢の姿は自分だとあの時わたしは思ったのだった。完全にたんなる感情移入だけど。
ある年の春休み、「こほろぎ嬢」を読んだわたしは、尾崎翠にすっかり魅了され、猛烈な勢いで毎日図書館に通い、学食のパンをかじり、親からお金をせびって全集を買い、翠の生まれた鳥取に行き、自己満足な論文を書いたのだった。すごく充実した時間だったとおもう。